聖徳太子をめぐる人々

とりあえず、聖徳太子をめぐる人々を羅列してみました。
昔は、1人の人が複数の奥さんを持つことが許されていたので、兄弟がたくさんいます。
同母の兄弟というのはお父さんもお母さんも一緒の兄弟、異母兄弟というのは、お父さんは一緒で、お母さんが違う兄弟のことです。
結婚は、同母兄弟間では認められませんでしたが、異母兄弟の間ではokだったので、異母兄弟間で結婚している人はたくさんいます。
そういうことで、ちょっとごちゃごちゃした関係になっていますが...

天皇家(親族)  蘇我氏  その他

天皇家(親族)
本人
うまやど
厩戸皇子
本人です。
両親
ようめい たちばなとよひ
用明天皇(橘豊日皇子)
厩戸皇子のお父さん。欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の子供。
異母兄・敏達天皇の崩後、天皇となるが、翌年には崩御してしまう。
あなほべはしひと
穴穂部間人皇女
厩戸皇子のお母さん。欽明天皇と蘇我稲目の娘・小姉君の子ども。
異母兄・用明天皇との間に4人の子どもをもうける。用明天皇崩後、田目皇子と再婚し、1子を設ける。
兄弟
同母
(穴穂部間人皇女)
くめ
来目皇子
厩戸皇子の同母弟。 久米王ともいう。
推古10年新羅遠征の将軍となるが、4か月後には病に倒れ、翌年2月、ついに筑紫で没する。
えぐり
殖栗皇子
厩戸皇子の同母弟。
まんだ
茨田皇子
厩戸皇子の同母弟。
母は同じ
父・田目皇子
さとみ
佐富女王
厩戸皇子の異父妹。 母・穴穂部間人皇女が田目皇子と再婚して生まれた子ども。
異母
(石寸名/いしきな・蘇我稲目の娘)
ため
田目皇子
厩戸皇子の異母兄。 多米王ともいう。
後に厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女と結婚して佐富皇女をもうける。
異母
(廣子/葛城直磐村の娘)
まろこ
麻呂古王
厩戸皇子の異母弟 当麻(たいま)皇子、卒末呂(そまろ)王ともいう
推古11年、来目皇子没後に、新羅遠征の将軍となるが、途中、妻の舎人姫王が薨じたことにより遠征を中止した。
当麻寺を建立したと伝える。
すかて
酢香手姫皇女
厩戸皇子の異母妹 用明天皇即位後、すぐに伊勢に日神の祀に仕えることとなった。後、崇峻、推古の代にわたり伊勢で日神に仕える。
祖父・祖母
祖父  きんめい
欽明天皇
継体天皇の子ども。 聖徳太子にとっては、父方、母方両方からも祖父にあたる。
祖母(父方) きたしひめ
堅塩媛
蘇我稲目の娘。
祖母(母方) おあねぎみ
小姉君
蘇我稲目の娘 
伯父・叔母
用明天皇と同母
(母は堅塩媛)
すいこ
推古天皇
用明天皇の同母妹。額田部(ぬかたべ)皇女、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)ともいう。
聖徳太子が皇太子であったときの天皇。崇峻天皇の後に天皇となる。日本で最初の女帝。
間人皇女と同母
(母は小姉君)
あなほべ
穴穂部皇子
穴穂部間人皇女の同母弟。
敏達天皇崩御後、天皇候補となるが、敏達天皇の殯の最中に皇后(推古天皇)に無礼を働き、誅される。
すしゅん
崇峻天皇
泊瀬部(はつせべ)皇子。
用明天皇崩御後、天皇になるが、その後殺害される。蘇我氏との対立のためと言われる。
父・欽明 母・石姫皇后 びたつ
敏達天皇
推古天皇の夫。欽明天皇の後に天皇となる。
従兄弟
父・敏達天皇
母・推古天皇
うじかいたこ
莵道貝蛸皇女
敏達天皇と推古天皇の第1子。 後に聖徳太子の妃となるが、子をなさなさった。
たけだ
竹田皇子
敏達・推古天皇の第2子。 用明2年に物部守屋征伐の軍に加わったことは見えるが、その後は見えず。後に、推古36年、推古天皇崩後の記事に合葬されたことが見えるので、早くに夭折したことが推測される。 
おわりだ
小墾田皇女
後に異母兄弟の押坂彦人大兄皇子の妃となる。
おわり
尾張皇子
聖徳太子の妃・位奈部橘皇女の父。
父・敏達天皇
母・莵名子
(釆女伊勢大鹿首小熊の娘)
ぬかてひめ
糠手姫皇女
田村皇女ともいう。 敏達天皇の妃となり、舒明(じょめい)天皇を生む。 
父・敏達天皇
母・廣姫(息長真手王の娘)
おしさかひこひとのおおえ
押坂彦人大兄皇子
麻呂子皇子ともいう。 天皇継承の有力者ではあったが、結局は即位しなかった。
糠手姫皇女との間に舒明天皇をつくる。 
父・敏達天皇
母・老女子(春日臣仲君の娘)
なにわ
難波皇子
用明2年の物部守屋征伐には、厩戸皇子らとともに加わる。
かすが
春日皇子
用明2年の物部守屋征伐には、厩戸皇子らとともに加わる。
父・桜井皇子 きび
吉備姫王
後に押坂彦人大兄皇子の子・茅渟(ちぬ)王と結婚して皇極(こうぎょく)天皇、孝徳(こうとく)天皇を生む
父・崇峻天皇
母・小手子(大伴糠手連の娘)
はちこ
蜂子皇子
崇峻天皇崩後は出羽に行き、出羽三山を開いたといわれる。
にしきて
錦代皇女
 
妃(奥さん)とその子どもたち
うじかいたこ
莵道貝蛸皇女 
欽明・推古両天皇の皇女。子どもはいない。
とじこのいらつめ
刀自古郎女
蘇我馬子の娘。
やましろおおえ
山背大兄皇子
厩戸皇子薨後、上宮王家を引き継ぐ。
天皇継承争いに巻き込まれ、蘇我入鹿によって滅亡させられる。
たから
財王
 
ひき
日置王
 
かたおか
片岡女王
 
いなべのたちばな
位奈部橘王
推古天皇の孫。 聖徳太子の薨後、天寿国繍帳を作成する
しらかべ
白髪部王
 
てしま
手島女王
 
ほききみのいらつめ
菩岐々美郎女
膳部臣加多夫古の娘。 聖徳太子とともに亡くなった妃で、磯長陵に合葬されている。
つきしね
舂米女王
後に異母兄、山背大兄皇子の妃となる。
はつせ
長谷王
 
くはた
久波太女王
 
はとり
波止利女王
磯部王ともいう。 
さえぐさ
三枝王
 
いとしこ
伊止志古王
 
まろこ
麻呂古王
 
うまやこ
馬屋古女王
 
父・山背大兄皇子
母・舂米女王
なにわのまろこ
難波麻呂古王
 
まろこ
麻呂古王
 
ゆげ
弓削王
 
ささ
佐々女王
 
みしま
三島女王
 
こうが
甲可王
 
おわり
尾治王
 
父・長谷王
母・佐富女王
かつらぎ
葛城王
 
たちぬ
多智奴女王
 
父・長谷王
母・小手子
(こてこ)郎女(大伴)
はちのこ
波知乃古王
 
にしきで
錦代王
 
父・日置王
母・伊斯売支弥(
いしめきみ・蘇我大野君多利支弥の娘)
一男・一女  

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蘇我氏関係
いなめ
稲目
宣化天皇のときに大臣(おおおみ)に任じられる。その後、ことあるごとに大連(おおむらじ)の物部と対立していく。
うまこ
馬子
稲目の子。敏達天皇の即位に際し大臣に任命される。用明2年に物部守屋を倒した後は、推古天皇の世にわたるまで実権を握る。
きたしひめ
堅塩媛
稲目の娘。欽明天皇の妃。 聖徳太子の父方のおばあさん 
おあねぎみ
小姉君
稲目の娘。欽明天皇の妃。 聖徳太子の母方のおばあさん 
いしきな
石寸名
稲目の娘。敏達天皇の妃。 用明天皇の妃となる。
えみし
蝦夷
馬子の子。 父のあとを受け継ぎ大臣として実権を握る。 乙巳の変(大化改新)で息子・入鹿が殺害されたのを知り、自害する。
ぜんとこ
善徳
馬子の子。 推古4年、元興寺を作ったときに、寺司となる。
とじこ
刀自古郎女
馬子の娘。 聖徳太子の妃。 山背大兄皇子などを生む 
ほほて
法提郎女
馬子の娘。 舒明天皇の妃となり、古人大兄皇子を生む。 
いるか
入鹿
蝦夷の子。 父・蝦夷のあとを受け実権を握るが、乙巳の変で殺害される。

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聖徳太子にかかわった人たち
物部氏
もののべのもりや
物部守屋
蘇我馬子と敵対関係にあった人。 厩戸皇子が16歳のとき、征伐に加わった。
主従関係
はたのかわかつ
秦河勝
厩戸皇子の寵臣。 山背国を本拠とする。 
ちょうしまる
調使丸
厩戸皇子の舎人。 厩戸皇子の愛馬・黒駒の飼育等に当たった。
かしわでのかたぶこ
膳部臣加多夫古
傾子とも書く。 聖徳太子の妃・菩岐々美郎女の父。
欽明天皇31年に越国に高麗の使いを饗した際の記事に見られる。
その後、物部守屋討伐にも加わり、功を挙げる。
聖徳太子をとりまく人々
くらつくりのとり
鞍作止利
仏師。 元興寺や斑鳩寺(法隆寺)の造像に携わった。 
僧侶
えじ
慧慈
高麗出身の僧。 厩戸皇子の仏教の師の一人。
にちら
日羅
百済の官吏。 橘寺に厩戸皇子との交流の話が残る。
遣隋使 600・607・608・610・614の計5回にわたって隋に派遣された。(うち、600と614年は日本書紀には書かれていない)
ようだい
煬帝
遣隋使を派遣したときの隋の皇帝。
はいせいせい
裴世清
隋からの遣者。 608年に来日。
おののいもこ
小野妹子
607年に派遣された。 裴世清を伴い帰国。 その帰国に伴い、再び隋に渡り、翌年帰国。その後の消息は不明。
みなぶちのしょうあん
南淵請安
608年に小野妹子に従い隋に渡る。640年に帰国してからは、中大兄皇子ら時の権力者は皆、請安に学ぶ。
きしのおなり
吉士雄成
608年、裴世清を迎えるために筑紫に使わされた。 同年、裴世清帰国に伴い、小野妹子らと隋に渡る。
たかむこのくろまろ
高向玄理
608年に南淵請安らと共に隋に渡る。 645年に帰国。 僧旻らと共に国博士になり、大化改新後の政治に大きな役割を果たす。
みん
608年に南淵請安・高向玄理らと共に隋に渡る。 645年に帰国。 国博士になり、大化改新後の政治に大きな役割を果たす。
いぬがみのみたすき
犬上御田鍬
614年に遣唐使として入隋。翌年、帰国。 後に、第1回の遣唐使となる。
太子信仰
ぎょうしん
行信
奈良時代の法隆寺僧・法隆寺東院を再興した人

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